T's Columns

多少過激なコラム書き殴り

言論の自由

日本は自由で民主的な国である。天皇という君主を頂く万民平等な国だ。

しかし言論の自由を守るのは自由主義者だけである。社会主義者(共産主義者)や民族主義者は言論の自由を守ろうとはしない。自分の意見は主張するが異論を許さない発言をしばしば行う。差別反対の論を張り、反論者を誹謗して差別する人権擁護論者に似ている。

原発稼働反対論者の中には稼働推進論者に対して人非人のごとき誹謗を浴びせることがある。憲法改正を主張する者を好戦的などと云うのと似ている。

しょせん、社会主義者や民族主義者、人権擁護派などは偽善者なのだ。

日本では共産主義者や社会主義者、または右翼民族主義者はとかく、自分たちの論に反対するものを排除しようとする。絶対正義を信じるせいだろう。彼らは言論の自由を守ろうとはしない。

「だめなものはだめ」と云って話し合いに応じようとしなかった旧社会党の故土井たか子元党首などは言論の自由否定論者だった。国会議員にあるまじき考え方である。話し合いをしない議員など無用の長物でしかない。

日本人の大半が自由主義者言論の自由や思想の自由を認めているのを良いことに、反社会的思想や自分だけ言論の自由を主張する絶対正義主義者などがはびこっているのが日本の現状である。

憲法改正問題、集団的自衛権問題、原子力活用問題などは、感情や思想で語るべき問題ではない。純粋に政治的、専門的理論と専門的技術的な見地から論じて検討するべき問題である。

政治や外交などに一般国民が関心を持つのは必要なことである。自由な意見や見解を持つのも自由である。しかし自分の意見とは違う意見を認めないとか聞かないというのは、傲慢不遜と云うべきで、自由を認める日本には相応しくない。そういう意味では左翼も右翼も全く同じである。此の世に絶対正義など存在しないのだ。

歴史的に戦争は絶対正義の対立であった。存在しないものを互いに主張するから戦争になったのだ。イスラムユダヤキリスト教などの対立が世界戦争の原因なのだ。

日本という国は古代から話し合いで何事も解決してきたとされている。ところが話し合いだけでは解決しないこともある。そういうときは日本人は放置することが多い。何もしないという処置をするわけだ。やがて時間が経って考えも変わる場合もある。状況が変化して知られていなかった事情がわかってくると云うこともある。それから話し合えば解決することもある。理論だけでは処理しないのが日本人だと云える。だが互いに相手の意見を無視したり、抹殺したりしては次の話し合いができなくなる。怨念を残してはならないのが日本人流なのだ。言論の自由とはそういうことも含めた意味があるのだ。現代の日本人はそういうことが分からなくなっている。

「国土防衛」などは「戦争の是非」とは別の問題だ。国土防衛は課題であり、戦争は手段の一つでしかないからだ。

「エネルギー問題」も「原子力活用」とは別の問題である。発電するのに水力や火力が原子力より良いかどうかは検討するべき事で、最初から原子力がだめというのは暴論である。憲法改正も検討する問題で、改正を否定するのはこれも暴論でしかない。

とかく憲法改正原発に反対する論には、検討もしない、考えもしない、最初から結論を出して反対のための反対をしている論が多い。これすなわち共産中国や海外勢力の思惑が根底にあるのだ。そこに気づいていない国民は多いだろう。

反対を煽るマスコミは確信犯もいるが、これも気づかずに脳天気なだけの論もある。現代は情報が多すぎて取捨選択を誤ると戦争になってしまうことだってあり得る。共産中国のように侵略的意思を隠さないような野蛮な国が隣にいるのだ。感情論では平和は崩れるのが歴史的教訓だ。

頼朝を哀れに思って助けた清盛は源平対立を生み頼朝に滅ぼされた。秀頼・淀君を自害に追いやり豊臣家を滅ぼした家康は、その後260年間の平和をもたらした。

国政や外交は感情論では処理できない。個人的にはいくらでも感情に走るが良いが、国政は時に手練手管を使うべきである。清廉潔白で無能な政治家など国政には必要ない。