T's Columns

多少過激なコラム書き殴り

日本の戦争(日清・日露)

日露戦争における日本軍の完全勝利は世界の歴史を変えた一大事だった。1904年(明治37年)〜1905年(明治38年)のことである。それまで白人種と有色人種との本格的対戦はなかった。常に白人種が有色人種を征服し奴隷化していたのだ。有色人種にとって白人種は常に主人であった。逆らえば悉く殺されてきた。正面切って戦うなど思慮の他だったのである。

15世紀から17世紀にかけて、この時代は大航海時代と呼ばれ、スペインとポルトガルが世界を2分する侵略の時代だった。アメリカ大陸もこの時代に侵略を受け、現在のアメリカは当初流刑地でもあった。キリスト教国だったスペインは南米を侵略しマヤ文明アステカ文明、インカ文明という古代の文明を悉く滅ぼした。当時のキリスト教徒はその教義から体を洗うことをしなかったので非常に不潔だった。南米の古代文明人のほとんどはヨーロッパキリスト教徒の持ち込んだ疫病で死んだとされている。ちなみに日本にやってきたポルトガル人やオランダ人も非常に不潔で、いつも蝿が周りを飛んでいたと川柳にあるほどだ。ヨーロッパでコレラが大流行した原因も彼らの不潔さにあるのだ。今の「エホバの証人」の教義にも体を洗うとか髪を切るなどを禁止しているものがある。輸血を拒否した例も同じ教義からくるものだ。人間の体は創造主が作ったものだから勝手な変更はできないというのが教義の本質なのだ。ヨーロッパで香水が発達したのも臭くてどうにもならなかったせいなのである。

彼らは勝手に南米を分割したので東半分の今のブラジルはポルトガルが奪った。アフリカも侵略を受け、膨大な数の現地人が拉致されヨーロッパやアメリカに奴隷として売り飛ばされた。アジアも侵略を受け、スペインとポルトガルの奴隷牧場となっていた。フィリピンはスペインに侵略され、フィリッペ2世の名にちなんでフィリピンと名付けられた。元の意味は「フィリッペの島々」である。フィリピンの首都マニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン航路が太平洋を結ぶ植民地政策の重要航路となり、ヨーロッパは植民地からの膨大な物資の搾取で栄えたのだ。

18世紀から19世紀はイギリスがスペイン、ポルトガルに対抗して世界を征服した時代だ。イギリスは当初「東インド会社」という国策貿易会社を先頭に立てて、貿易をするという名目で侵略を続けた。有名な「アヘン戦争」は東インド会社が暴利を貪っていたアヘンを清国に焼かれ、イギリスをけしかけた結果なのである。ちなみに東インド会社の後継会社「ジャーディン・マセソン商会」の日本代理店として幕末の日本に来たのがトーマス・グラバーである。彼は武器商人としてアメリカ南北戦争終結で余った銃器を薩摩や長州に売り、明治維新を支援した。坂本龍馬亀山社中を作らせたのも彼である。また岩崎弥太郎を支援して後の三菱財閥の基礎を作った。明治政府はグラバーに勲二等旭日重光章を与えて感謝を表している。

ジャーディン・マセソン商会は2人のユダヤ系イギリス人が創設者だが、清国とのアヘン密貿易で巨万の富を築いた。現在でも同族は健在で、セブンイレブンスターバックス、イケヤなどの大株主だ。またマンダリン・オリエンタルホテルグループの経営もしている。当初は上海に拠点を持っていた。共産中国が誕生してからは香港を拠点にし、税金のかからないバミューダ諸島のハミルトンに本社を置いている。上海では同じユダヤ系イギリス人のサッスーン一族もアヘンの密売で巨万の富を得ていた。創設者のデビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれたほどだ。最盛期は不動産業で財をなした4代目ビクター・サッスーン。現在でも上海にある巨大なビル群は彼らの建てたものだ。イギリスの清国侵略とはこういう会社の経済侵略だったのである。同じ時期フランスはインドシナ半島を侵略して領土にしていた。

こうしたヨーロッパ白人種が有色人種を食い物にしていた時代に、唯一有色人種の日本が白人種の侵略に備えて近代国家になったのが明治維新だった。白人国家の侵略は日本のすぐ隣の清国を襲っていた。日本にとってはイギリスやフランスなどは海からしか来ない。最も脅威だったのが陸からくるロシアだった。ロシアは建国以来不凍港を狙う侵略国家である。ソ連を経て今でもロシアは南下政策を捨ててはいない。近年クリミア半島を奪ったのもそのためだ。日本にとって大陸からの侵略を防ぐには朝鮮半島を友好国にしておく他はない。朝鮮は古来支那大陸国家の属国だったので、明治政府は朝鮮(当時は李氏朝鮮)に独立国家であることを熱望した。しかし日本が王政復古を告げる国書を送っても、文面にあった「皇」や「勅」の文字は中華皇帝にしか認められない使用文字だとして受け取ることさえ拒否する有様だった。時の国王大院君は攘夷を国策にしていため、このままでは白人種に侵略されるのは時間の問題だった。朝鮮国内は大院君と息子の高宗妃閔妃との政権争いが頻発していたのでさらに危険な状態だったのである。

なかなか進展しない朝鮮より日本は先に清国と平等条約を結ぶことにした。日清修好条規は日本と支那大陸国家が初めて結んだ平等な条約だ。朝鮮では大院君と閔妃が権力をめぐって血で血を洗う抗争をしていた。日本国内では無礼な朝鮮を征伐すべきだという征韓論も持ち上がった。事態を打開するために止むを得ず明治政府は朝鮮に対して力づくでも開国させることにした。江華島沖に軍艦を派遣して沿岸の測量をするという示威行為をしたのだ。案の定江華島の朝鮮軍が日本の軍艦に対して発砲してきた。応戦した日本軍は江華島を占領し武装解除を行った。この事件後、日朝修好条規を結び日本と李氏朝鮮は国交を結んだ。朝鮮は体面のみを重んじ不平等な内容には関心を持たなかった。その後朝鮮は清国の強引な斡旋で米英仏露独各国と条約を結んだが、すべて不平等条約だった。ちなみにアメリカと結んだ条約には周旋条項があり、第3国との間に問題発生した際に周旋するという内容だったため、朝鮮は日清露と問題が生じるたびにアメリカに援助を依頼したがアメリカは朝鮮の価値を認めず無視し続けた。最終的には1905年日本に問題を押し付けて、アメリカを皮切りに英仏露独各国とも公館を撤収し、事実上条約は停止した。

しかし清国は朝鮮と日本の関係を面白く思わず、朝鮮への影響を強めようとした。大院君が扇動した壬午事変(1882年・明治15年)で日本公館が襲われ日本人が多数殺害されたことから日本は軍隊を派遣したが、大院君に命を狙われた閔妃は王宮を脱出し清国軍に保護された。清国も軍隊を派遣して大院君を捉え、清国へ連行しその後3年間天津に幽閉した。政権に返り咲いた閔妃は事大主義に偏り、国内の開化派が国情を憂いて日本に支援を求めクーデターを起こす甲申政変(1884年・明治17年)が起きる。日本は開化派の金玉均を支援していた。閔妃は清国に派兵を要請し清国軍が鎮圧に当たった。この時日本公館に逃げ込まなかった日本人が酷い殺され方をしている。計画は挫折し、金玉均ら開化派の要人は日本に亡命する。残された開化派の家族は三親等まで惨たらしく処刑された。福沢諭吉などが金玉均を匿ったが、上海に滞在中閔妃が差し向けた刺客に金玉均は暗殺されてしまう。更に五体をバラバラにして晒す凌遅刑に処せられた金玉均のことを聞いて、福沢諭吉支那人朝鮮人に失望して「脱亜論」を著したとされる。事後処理として清国と日本は天津条約を結び軍隊を駐留させることになった。その後閔妃の圧政と役人の腐敗紊乱により農民の反乱が朝鮮各地で起き、大規模な東学党の乱(1894年・明治27年)に発展する。日本と清国は共に派兵したが、李朝政府と反乱軍の停戦後も両国軍は撤兵せず、小競り合いの後、互いに宣戦布告をするに至った。

日清戦争は日本にとっては朝鮮半島の独立をかけた戦争であった。清国はあくまで朝鮮を属国として確保したかったため、それを阻む日本を懲らしめる戦争だった。戦力的には日本海軍より李鴻章の北洋艦隊の方が優っていると思われていた。戦力は清国63万、日本軍24万、それでも日本は陸軍、海軍共に圧倒して戦勝したのである。1894年(明治27年)〜1895年(明治28年)のことだ。被害は日本軍の戦死者1,000名強、病死者10,000名強、清国は35,000名が死傷している。

戦後の下関条約で朝鮮の独立が宣言された。大韓帝国が誕生し朝鮮の国王は初めて皇帝となったのである。清国は遼東半島と台湾を日本に割譲することになった。ところが李鴻章はロシアに働きかけて干渉を促したのだ。ロシアは早速フランスとドイツに働きかけて、3国で遼東半島の返還を要求してきた。これが世に言う「三国干渉」である。3国を相手に開戦は不可能と思われた。日本国民はこぞって激昂したが、明治天皇は勅諭を出して国民をなだめた。そのため「臥薪嘗胆」が国民のスローガンとなったのである。

台湾は清国から割譲されたが、清国軍の残党とそれに呼応した現地民による蜂起があったため日本軍が平定した。当時台湾では疫病が蔓延しておりひどい惨状だったという。日本はまず台湾のインフラから整備することになった。病院を建て、学校を建て、道路を整備し、ダムを作った。台湾島は日本からの投資で近代化していった。台北帝国大学が設立されたのは1928年(昭和3年)のことで、1931年(昭和6年)大阪帝大、1939年(昭和14年)名古屋帝大より先なのだ。ちなみに朝鮮の京城帝大が設立されたのはもっと早く、1924年(大正13年)のことなのである。

三国干渉に屈した日本を朝鮮は見くびり始めた。強いロシアについた方がいいという事大主義が主流になったのだ。日本公使の三浦梧楼ら日本人が朝鮮の親日派と結託して王宮の閔妃を暗殺するという事件が起きたが、これは大院君の手引きだった可能性が高い。女官の多い王宮での事件だったからである。三浦らは日本側に逮捕され裁判にかけられたが、詳細は語らず証拠不十分で釈放された。しかし親露派の反発は激化し、反日武装蜂起が起きる。そのどさくさに暗殺を恐れた高宗は事もあろうにロシア公館へ逃げ込んでしまう。ロシアを後ろ盾に親露派が政権を樹立し、ロシアは南下政策を実行することになった。日本に放棄させた遼東半島の旅順と大連を李鴻章に賄賂を贈って租借していたロシアは、1903年(明治36年)鴨緑江西岸の朝鮮領龍岩浦を勝手に軍港化(ポート・ニコロラス)した。さらに朝鮮海峡に面した馬山浦や鎮海湾の港まで手を伸ばした。大韓帝国政府はこれを許したのだ。ロシアの脅威は日本の目前に迫っていた。

日清戦争に敗れた清国ではロシア、ドイツ、フランス、イギリスが次々に各地を租借する事態となり、西洋白人の侵略は清国を切り刻んでいた。1900年(明治33年)、反西洋感情を持つ清国の新興宗教の義和団が「扶清滅洋」を掲げ、運動は瞬く間に全国規模の暴動に発展した。暴徒はキリスト教会を襲い多くの白人種を殺害しまくった。当時清国には2,000箇所以上ものキリスト教会があったのだ。暴徒は首都北京に迫ったが、清朝政府の西太后は鎮圧するどころか正規軍を出して暴徒に加担し、西洋列強に対して宣戦布告した。北京の公使館や天津の租界地が攻撃に遭った。北清事変である。

西洋列強は驚いて居留民保護を日本政府に求めたが、日本は何度依頼されても頑として動かなかった。後に言われるかもしれない清国侵略の汚名を避けたかったからだ。イギリス政府が正式に派兵を依頼してきたことからやっと派兵をしたのである。北京に駐留していた各国公使の家族や武官たちは紫禁城に立てこもり、55日間籠城戦を強いられた。各国居留民3,000名、守備部隊は500名だった。ハリウッド映画「北京の55日」はその映画化である。映画はアメリカ海兵隊の少佐が主役だったが、実際には日本の武官柴五郎中佐がめざしい働きをして世界に注目された。映画では伊丹十三(当時は伊丹一三)が柴中佐役で出ている。また派遣された日本軍5師団は11ヵ国連合軍とともに勇猛に戦ったが、連合国軍兵士が略奪と強姦をする中、日本軍は一切の略奪も強姦も働かず鎮圧が済むと直ちに帰国している。紫禁城の宝物も日本軍がいち早く保護をして略奪を免れた。この時の日本軍の軍規正しい行動は世界の称賛を浴びた。イギリス公使アーサー・ロバートソン卿は「日本は信頼に足る国である」と本国に伝え、これが日英同盟のきっかけとなったのだ。

日英同盟は世界を驚かせた。白人種国が有色人種国と対等な軍事同盟を結ぶなど当時では考えられないことだったのである。特にイギリスは当時世界一の大国で「栄光ある孤立」を国是としていたからだ。イギリスは北清事変以後満州から動かないロシアの南下政策を食い止めるために信頼できる日本を同盟国に選んだのだ。いよいよロシアとの対立を決心した日本は、朝鮮半島からの撤退をロシアに要求した。満州までは止むをえないと考えていたが、ロシアは半島の半分まで要求してきた。いわゆる39度線だ。外交では決着がつかず、開戦は秒読みに入った。

しかし日本は戦費の調達に苦労した。増税には国情を熟知していた国民がよく耐えたが、イギリスで戦時国債を売ったものの予算の半分しか調達できなかった。日銀総裁だった高橋是清がイギリスに飛んでいたのだが、ロンドン滞在中に一人のアメリカ人と知り合う。ヤコブ・シフというユダヤ系のアメリカ人だった。シフはロスチャイルド家の金庫番をしていた銀行家だった。ロシアのユダヤ人迫害に反対する運動をしていたのだ。シフは予算の残り半分を出すと約束した。明治天皇日露戦争後シフに勲一等旭日大綬章を贈って感謝を表している。

イギリスは同盟に従って中立を保ち、ロシアの同盟国フランスとも協議して中立を守らせた。日本も戦後処理にアメリカを選んで仲介を頼んでいた。世界中が日本の敗戦を予想していたが、ロシアに虐げられていた北欧3国や、ユダヤ人、アジアやアフリカの有色人種は固唾を飲んで戦況を見ていた。日露戦争ロシア帝国大日本帝國の一騎打ちだったため各国から観戦武官が派遣されていた。イギリス、アメリカ合衆国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデンノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国の13ヶ国から70人以上もいたのだ。イギリスからは33人の観戦武官がいた。ちなみにアメリカからはアーサー・マッカーサーが観戦に参加している。息子のダグラスも連れてきていた。

1904年(明治37年)2月、旅順港への奇襲で戦闘は始まった。陸軍では世界無敵と言われたロシア・コサック騎兵をどう破るかが大問題だった。騎兵第1旅団を率いた秋山好古少将はフランスに留学中コサック騎兵には勝てないという結論を出していた。そこで当時の最新兵器の機関銃を兵に持たせて、コサック騎兵と遭遇した時に馬から降りて機関銃の掃射を命じたのだ。ナポレオンも戦おうとはしなかったコサック騎兵に秋山少将は大勝利を上げたのである。奉天会戦でなんとか勝利した日本軍だったが損害も多かった。日本軍が奉天を占領した際にアメリカは仲介に入ろうとしたが、ロシアはバルチック艦隊が必ず勝利すると言って拒否している。ちなみに秋山少将がコサック騎兵を機関銃で打ち破ったことから、騎兵はその後の戦争では戦車に取って代わられることになった。

1904年(明治38年)、ロシアの無敵バルチック艦隊スエズ喜望峰を通る2手に分かれて出撃した。途中の各国で寄港を拒否されたり、水や食料、石炭の調達にも妨害に遭い疲弊したままの航海だったという。世界中が日本に味方をしていたと言って良い。
1905年5月、日本海で連合艦隊はバルチック艦隊を迎え撃った。
戦力
日本軍  戦艦4隻 装甲巡洋艦8隻 巡洋艦15隻他全108隻
ロシア軍 戦艦8隻 海防戦艦3隻 装甲巡洋艦3隻 巡洋艦6隻他全38隻
損害
日本軍  水雷艇3隻沈没 戦死117名 戦傷583名
ロシア軍 21隻沈没 被拿捕6隻 中立国抑留6隻 戦死4,830名 捕虜6,106名

日本海海戦は日本軍の連合艦隊が圧倒的な勝利を挙げた。正確無比な砲撃と下瀬火薬という新兵器、木村駿吉が開発した電信機器が勝利を導いたのだ。バルチック艦隊は壊滅した。ロシアはやっと講話に応じた。世界の有色人種は歓喜したという。しかし日本のあまりの完勝に白人種国家は恐れをなした。仲介に立ったアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは危機感を持ったという。その後アメリカは反日に転じていくのだ。