T's Columns

多少過激なコラム書き殴り

貴族政治から武家政治へ

平安時代までは日本は天皇を中心とした朝廷の政治だった。家臣の藤原氏天皇家姻戚関係を強めて摂関家として貴族政治をしていた。時には天皇を蔑ろにするような専横があったため、天皇家摂関家が権力争いをするという事もあった。藤原一族は権力を強めるだけでなく、荘園を利用して土地や人民の私物化をしたため、朝廷が疲弊する事態となり、都の治安も極度に悪くなった。白河上皇院政を始めたのも摂関家に対する天皇家の反撃だったのだ。

白河上皇は都の守りに武家を使った。北面の武士と云う。武家とは元は天皇の皇子たちが臣籍となったもので、地方で自ら開墾などをしていた者たちを云う。自警のために武装していた彼らは、平氏と源氏という氏を賜っていた。

白河上皇院政を強化し、藤原摂関家の専横を阻む事ができたが、上皇崩御摂関家の逆襲が起こり、ついで鳥羽上皇崇徳天皇の確執に乗じて関白藤原忠通と異母弟の藤原頼長、父の忠実が世継ぎ争いでそれぞれに分かれ、鳥羽法皇崩御後は崇徳上皇近衛天皇の跡を継いだ後白河天皇が対立するという事態になった。

後白河天皇の側近には摂関家の専横を嫌う藤原通憲(信西)がおり、関白藤原忠通平清盛源義朝らが主力だった。崇徳上皇側は左大臣藤原頼長源為義平忠正らがついた。後白河と崇徳は異母兄弟、忠通と頼長も異母兄弟、清盛と忠正は甥叔父、義朝と為義は子と父という肉親同士の対立であった。

保元元年(1156年)両陣営は武力衝突をした。保元の乱である。

乱は後白河天皇側の勝利となり、藤原氏長者は忠実から忠通へという宣旨が出された。藤原氏内部の相続や人事は天皇といえども口を出せない決まりだったから異例のことだった。崇徳上皇は讃岐に流され朝廷を呪いながら亡くなった。その他の貴族も配流、武家には死罪が言い渡された。天皇もしくは上皇が配流になったのは400年ぶり、死刑が復活したのが345年ぶりの事だった。

これらの戦後処理には信西(藤原通憲)の意向が強いと云われている。信西はついで国政改革に着手し辣腕を振るった。特に摂関家が国土の私物化に利用していた荘園を天皇の統治下に置く「荘園整理令」を発布し、摂関家は大打撃を受けた。しかし信西自身は頼長の所領を没収して事実上領有するなど私物化も図った。

信西一族は勢力を拡大し、平清盛を厚遇したため武家の台頭も目覚ましかった。そのためもあって反信西派が生まれる原因になった。その筆頭が後の二条天皇の勢力であった。

元々後白河天皇近衛天皇の急死により皇太子で幼かった二条天皇即位までの中継ぎとして即位した事情があったので、皇太子の養母の美福門院が信西に強く二条天皇の即位を迫ったのだ。

後白河はやむを得ず二条天皇に譲位し院政をしようとしたが、二条天皇派は親政を望んだため、後白河は新たな近臣を得る必要に迫られて武蔵野守・藤原信頼を抜擢する。信頼は源義朝と連携していた。藤原摂関家源為義という警護武力を失っていたため、信頼と姻戚を結ぶなど連携をはかった。清盛も信頼とは姻戚関係を結んで中立の立場を取っていた。

信西一門、二条天皇親政派、後白河院政派の三つ巴の権力図だったが、反信西の勢力は結託していた。信西に近いと見られていた清盛が熊野詣でに出た隙に、信頼は源義朝や源光保らを伴って挙兵し、信西を捕らえ斬首するという平治の乱(1159年)が起きる。天皇上皇を確保した信頼のクーデターは成功したかに見えたが、帰京した清盛が天皇派につき、天皇上皇も内裏を脱出して、二条天皇は清盛邸のある六波羅へ移動した。これにより信頼・義朝は追討される事になった。

圧倒的な戦力で清盛軍は信頼・義朝軍を破り、平家一門は勢力を確実なものとした。乱後は二条天皇後白河上皇の二頭政治が続いたが、清盛はどちらにも付かず、武士では初めて公卿になった。その後摂関家とも姻戚関係を結び、清盛の正室時子の妹滋子(建春門院)が後白河の皇子憲仁親王(後の高倉天皇)を生んだが、平時忠平教盛などが立太子を画策したため二条天皇の逆鱗に触れ、一時後白河院政は停止させられた。

その後二条天皇、前関白藤原忠通太政大臣藤原伊通、摂政近衛基実などが次々に亡くなり、清盛は大納言として娘婿の摂政基実を補佐していたのだが、後白河院政が復活して左大臣まで出世した。清盛は基実の所領だった荘園郡を正室である娘盛子に継承させ実質配下に納めて莫大な経済力を持った。

政敵がほぼ亡くなって後白河上皇と清盛の天下となった後は、共同して日宋貿易を発展させた。後白河上皇は清盛の長男重盛に軍事警察権を委任し、東海道東山道山陽道南海道の追討を担当させた。内裏の警備は諸国から武士を交替で上京させ、清盛に管理させた。これにより平氏の軍事政権の基盤が出来上がって行った。

1168年高倉天皇が即位、清盛は出家して政界を引退するが、1171年には娘の徳子を高倉天皇の中宮とした。ここに清盛一族は10数名の公卿と殿上人を30名以上も輩出するに至り栄華を極めた。

しかし1176年建春門院が没すると、後白河と清盛の関係も冷めていく。高倉天皇が成人して親政に関心を持ち始め平氏が擁護する一方、後白河は院政継続を望んでいたため、平家と院近臣との対立が表面化した。

 そこへ当時勢力を伸ばしていた宗門延暦寺末寺である加賀白山の宇河寺が、院近臣藤原師光(西光)の子で加賀守藤原師高と目代藤原師経に焼かれるという事件が起き、延暦寺が師高を罰するよう強訴に及んだ。当時は摂関家だけでなく宗門も荘園による土地の私物化を行っていたのだ。しかも宗門はまさに聖域であった。後白河は目代の師経を流罪に処して収集しようとしたが、信者衆は納得せず神輿を持ち出して内裏に押し掛けようとした。後白河は官兵を派遣したが、翌日警護に当たった重盛の兵と信者衆が衝突し、神輿に矢が当たって死者まで出た。信者衆は激高して神輿を放置したまま帰山してしまった。やむなく朝廷は師高を尾張国へ配流、神輿に矢を射た重盛の家人は拘禁される事になった。西光も配流が決まっていたが後白河がとりなして信者衆に受け入れられたという。

しかしその後延暦寺を恨んだ西光の訴えで、後白河は天台座主明雲を逮捕、所領没収の上伊豆へ配流した。しかし護送中信者衆2000人に取り囲まれて明雲は奪われ、延暦寺に隠匿されてしまう。後白河は激怒し、重盛・宗盛に延暦寺を攻撃するよう命令を出した。清盛も上洛し消極的だったが、後白河に強要され出撃の準備を整えているところへ、平氏打倒密議の密告があった。藤原成親・西光・俊寛らが鹿ヶ谷に集まって計画しているというのだ。清盛はすぐさま西光を捕らえ拷問して、自供させ首をはねた。成親も拘束された。

この動きに比叡山側は清盛に感謝し、信者衆は山へ戻った。その後密議に参加したという俊寛、基仲、中原基兼、惟宗信房、平資行、平康頼などが一網打尽にされ、明雲は配流を解かれた。尾張に配流されていた師高は清盛の家人に惨殺され、成親も備前国へ配流され殺害された。 

 この密議事件の真為のほどは定かではない。清盛が後白河の院近臣を潰し、比叡山との衝突を避けるためにでっち上げた可能性はある。後白河には手は出さず処分はしなかったが、確執は決定的となった。

 1178年清盛は高倉天皇との関係を強化し新制を発布、同年中宮徳子が高倉の皇子(後の安徳天皇)を出産した。皇子は生後一月で皇太子に立てられた。

翌治承3年、重盛と近衞盛子が相次いで亡くなると、後白河上皇と関白基房が重盛の知行国と盛子の荘園群を清盛に無断で没収してしまった。ここに対立は決定的となり、清盛は基房・師家親子を始め藤原師長などの公卿以下高官39名を解官し、後白河上皇は鳥羽殿へ幽閉してしまう。この政変により従前の高官に変わって平家一門や親平家貴族が登用され、知行国も大幅に入れ替えられた結果、平家一門の軍事政権が確立した。

翌年高倉天皇安徳天皇に譲位、平家の傀儡として高倉院政が開始された。清盛は高倉上皇とともに厳島神社へ社参を行ったが、これは代替わりには石清水八幡宮賀茂神社へ社参するという慣例に反していたため、園城寺興福寺などの一斉反発を受ける事になった。反平家の機運が高まり、後白河の第3皇子以仁王が平家追討の令旨を発し、源頼政と組んで挙兵したが、清盛が素早く対応して敗死に追い込んでしまった。

しかし宗門の反発を嫌って清盛は福原遷都を計画して福原行幸を決行した。ところが高倉上皇も遷都には反対し、貴族たちにも極めて不評で、朝廷内でも清盛への反感は募っていった。さらに以仁王の令旨を受けた地方の反平家勢力が結集し始めていた。

保元の乱で敗死した源義朝の遺児で伊豆に配流されていた頼朝は、治承4年(1180年)舅の北条時政土肥実平、佐々木盛綱らとともに挙兵し、伊豆目代山木兼隆を襲撃して殺害した。しかし翌日石橋山の戦いで、大庭景親、伊東祐親率いる平家軍に惨敗してしまう。

辛うじて真鶴岬から海へ逃れた頼朝は房総半島・安房国へ向かった。安房では三浦一族と合流し、地元の豪族安西景益が迎え入れ、下総国府で千葉氏が参加、上総では上総広常の大軍と合流した。その後武蔵国で豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼江戸重長畠山重忠らが参集し、鎌倉へ入った時には2万5000騎の大軍となっていた。これら関東の源氏や平氏は清盛一族の平家に権益を独占されて不満を持っていた者たちだったのである。

大庭景親から頼朝挙兵の報が福原に届き、清盛は追討軍を関東に派遣することにした。孫の平維盛を総大将に、忠度、知度と、藤原忠清が参謀として付いたが編成には相当手間取った。 追討軍は進軍しながら諸国の武者をかき集めて7万騎になっていたという。

追討軍が時間を空費しているうちに、甲斐源氏武田信義、安田義定、一条忠頼らが挙兵し甲斐国を制圧し、駿河国へ侵攻した。10月には富士の麓で目代の橘遠茂を打ち破って、甲斐源氏の軍勢は静岡・黄瀬川で頼朝軍と合流したという。この時奥州から駆けつけた義経が頼朝と対面している。

大庭景親は駿河まで来た維盛と合流しようとしたが、甲斐源氏軍に行く手を阻まれ相模国にとどまり軍を解散してしまう。後に頼朝に降伏するが斬られている。

富士川で相対した頼朝軍と追討軍だったが、追討軍には士気が無く、その夜突然追討軍は撤退した。頼朝は追撃を望んだが上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが東国を固めるよう主張したため鎌倉へ帰還する事にした。帰還途上頼朝は相模国府で参加武将の本領安堵、敵から奪った領地の新恩給府をおこなった。甲斐源氏は単独で武田信義駿河、安田義定が遠江へ進出して勢力下に収めた。

都では園城寺興福寺と敵対してはいたが遷都には反対だった延暦寺が仲を取り持って清盛は福原から戻る事になった。しかし園城寺興福寺は反平家の兵を挙げたため、清盛は断固とした態度で臨み、知盛が園城寺を焼き払い近江源氏を撃破し、重衡は南都の諸寺を焼き払って荘園を没収し機内の叛乱は沈静化した。

翌年(1181年)高倉上皇崩御後白河院政が復活したが、畿内には臨時軍政を敷くべしと云う高倉の遺志に基づいて、清盛は嫡子の宗盛を畿内周辺の直接官領する惣官に任じた。同年2月清盛は原因不明の熱病にかかり急死した。

宗盛は後白河と融和路線をとったが、平家の反撃と養和の大飢饉で政争どころではなくなり小康状態となった。しかし2年後には木曾義仲が北陸から一気に京へ攻め上り、平家一門は安徳天皇を奉じて九州太宰府へ下向したが、豊後の武士緒方惟栄に撃退されて壇ノ浦へたどり着いたといわれる。

後白河は比叡山に身を隠して都落ちをやり過ごした。都を占拠した義仲軍は乱暴狼藉を働き礼儀をわきまえない粗野な振る舞いをしたため京では不評をかった。また後白河は平家が3種の神器を持ち出していたので返還するように交渉したが成立せず、高倉の二人の皇子のうちどちらかを即位させようと決めるが、こともあろうに義仲が自分がかくまった以仁王の遺児北陸宮を擁立すべきと進言して朝廷の顰蹙をかうことになった。

後白河は義仲には早く平家追討をするように言いつけて京を追い出し、代わって頼朝を保元の乱以前の本位に戻して赦免し、宣旨を下して東海・東山道諸国の支配権を与えた。頼朝は義仲の不行跡を責め、後白河には義仲追放を要求したが、後白河は義仲に北陸道を与え頼朝には和解を命じている。

頼朝は中原親能と義経を派遣して朝廷対策と義仲排除を図った。朝廷も義仲と対峙する事を決め、後白河は法住寺殿を武装化した。追いつめられた義仲は法住寺殿を襲撃、院側の主力土岐光長・光経親子を打ち破った。後白河は義仲軍に捕縛され五条東洞院の摂政邸に幽閉されてしまった。義仲は前関白基房と結託してその子師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立する。義仲は院御厩別当と左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握し、頼朝追討の院庁下文を発給させ官軍の体裁を整えた。しかし源範頼義経率いる鎌倉軍は宇治川や瀬田の戦いで義仲を破り、落ち延びた義仲は近江の国粟津で討ち死にした。

 この間平家は体制を立て直して福原まで来ていた。範頼と義経は平家追討を命ぜられ範頼が大手軍(主力軍)、義経が搦手軍(遊撃隊)を率いて一ノ谷の戦いで大勝利をあげる。戦後、範頼は鎌倉に引き上げ、義経は京都の治安維持に努めた。伊賀や伊勢に潜伏していた平家方の武将が叛乱を起こすなど、治安は不安定だったのである。

後白河は治安の維持に努める義経を左衛門少尉、検非違使に任じ、頼朝も叛乱を起こした平信兼を義経に討たせて、彼らの所領を義経に支配させるよう朝廷に申出ている。

義経が都の治安維持に時間を取られている間、範頼が再び西国へ平家追討の兵を進めた。しかし兵糧や兵船の調達に苦労する。義経はそこで朝廷に許可を得て屋島を少数の兵で奇襲し、平氏を敗走させ、ついに壇ノ浦の海戦で平家を滅ぼした。平家一門とともにいた幼い安徳天皇は母徳子と神器の剣とともに入水してしまった。

安徳天皇を追いつめて入水させ、3種の神器のうち宝剣を失って、義経は頼朝の叱責を買う事になった。さらに頼朝は鎌倉の内挙を得ずに任官した武士たちを罵り、東国への帰還を許さず京での勤任を命じた。

ところが義経は頼朝の命に背き、捕虜にした平宗盛・清宗親子を護送して鎌倉へ凱旋しようとした。頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛親子のみ鎌倉に入れた。義経は有名な「腰越状」をしたため頼朝に届けたが許されなかったという。頼朝は平家追討の際、範頼に充てた書状で、安徳天皇の保護と神器の確保を厳命していたので、義経は許されるはずも無かったのだ。頼朝は海に没した宝剣をその後2年以上も探させたという。

京に戻った義経に頼朝は義仲に従った行家討伐を要請するが、義経は病気を理由に断る。そこで頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を差し向けたが返り討ちに合い、義経は行家とともに頼朝打倒の旗揚げをする。後白河は義経に頼朝追討の院宣を与えた。ところが義経らに与する者は少なく、頼朝自ら追討軍を率いて京へ向かうと、義経は九州での立て直しを図って、尼崎辺りから船出したところ暴風のため難破し、摂津に押し戻されてしまう。義経は解官され、後白河は義経追討の院宣を諸国に出した。

頼朝は親義経派の公家を解官させ、義経追補のためとして守護・地頭の設置を認めさせた。義経は吉野に隠れたが、次々と味方が捕らえられ、ついには京を抜けて奥州を目指した。藤原秀衡は奥州へ頼朝の勢力が及ぶ事を警戒して義経を総大将に抵抗する姿勢をみせたが、文治3年10月に病没した。秀衡は義経の類い稀な戦の才能を見抜いて、息子の泰衡に「義経を将軍にして指図を仰げ」という遺言をした。

しかし頼朝は朝廷を通じて再三泰衡に圧力をかけたので、ついに義経を衣川館に襲った。義経は妻子とともに自害した。その後泰衡は弟忠衡を義経に与したとして殺害したが、頼朝の奥州征伐によって滅亡させられた。

奥州平定で頼朝に敵対する勢力はなくなり、頼朝は上洛する事にした。1190年のことである。後白河法王と2人だけの会談を経て、義経・行家の捜索逮捕のための日本国総追捕使・総地頭の地位は、警察権を行使する恒久的なものとなり、翌年諸国守護権として認められた。征夷大将軍にはさらに翌年後白河法王崩御後に任じられることとなった。ここに鎌倉幕府政権が誕生する事になった。

清盛と頼朝はそれぞれ平氏、源氏という皇族の末裔であって武家貴族であった。しかし清盛は一門で内裏の重要な官職や荘園などの所領を独占するという、それまでの摂関政治にとって代わる政治体制を軍事力を背景に構築した。そのため武家政治とは言い難く、貴族政治の延長でしかなかった。

頼朝は同じ武力を持って平家を追討して日本を統一したが、征夷大将軍という武家の最高位に就いて、都ではなく鎌倉に本拠地を置くという方式をとり、警察権と軍事権を背景に幕府として政権を行使した点と、全国の武家の新たな開墾地の所有権を朝廷に認めさせた点が武家政治と云える所以である。

この幕府という方式を創設した事がその後約700年に渡って武家政治が続いた理由である。しかも朝廷を象徴権威と認め対立する事無く並び立った事は奇跡的であった。日本と朝鮮が中世貴族政治という似たような政治体制でいながら、その後は全く異なった歴史を辿った原因が、日本では皇族にゆかりの武家が誕生したと云うことであった。