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T's Columns

多少過激なコラム書き殴り

邪悪との遭遇

アメリカはイギリスの植民地から独立後、領土拡張を続けた。手始めに先住民から土地を奪った。次にスペインの植民地から独立した各地を取り込んだ。メキシコからはテキサスやニューメキシコなどを力尽くで奪った。次いでスペイン領を直接奪うことにした。キューバプエルトリコ、グアム、フィリピンがそれだ。テキサスを奪ったときに使ったわざと犠牲者を出してその報復として戦争をふっかけるやり方だった。
 
「Remember Alamo」で有名なテキサスを奪ったときのことだ。テキサスはメキシコから独立しようとしていた。アメリカからはデイビー・クロケットなどが義勇軍として参戦していた。独立軍はアラモ砦に立てこもった。メキシコ軍が砦を取り囲み独立軍は全滅する。アメリカの正規軍はごく近くにいたが砦の全滅をただ見ていた。その後「リメンバーアラモ」がアメリカ人の合い言葉になり、アメリカ軍はテキサスに攻め込んでメキシコから奪い取った。
 
スペインに直接戦争をふっかけたのはキューバの独立運動の際だ。アメリカはキューバの邦人保護の名目でハバナ湾に戦艦メイン号を送り込んだ。ところがメイン号は原因不明の爆発を起こして湾に沈んでしまう。当時誕生したばかりのアメリカの新聞社はスペインの仕業だと書き立てた。「リメンバーメイン」を合い言葉にアメリカはスペインに宣戦布告をした。宣戦布告の1ヶ月も前からアメリカはスペイン領フィリピンに艦隊を送っていた。キューバプエルトリコと同時にグアムとフィリピンを奪い取る作戦だったのである。
 
フィリピンではスペインの艦隊を破って主導権を握り、陸軍はフィリピンの独立軍の協力を取り付けてスペインと戦った。その際アメリカはフィリピンの自主独立を約束していたが、戦況が決すると勝手にスペインと話をつけ金銭で買い取ってしまう。その後フィリピンの独立を認めずアメリカ軍は圧政を敷いた。占領軍司令官はアーサー・マッカーサーという。日本占領軍の司令官だったダグラス・マッカーサーの父親だ。アーサーはフィリピン人を少なくとも20万人は虐殺したと言われている。
 
ハワイ王国はアメリカからの宣教師が上陸して以来アメリカからの移民が増え、土地の所有という概念もなかったハワイ人が二束三文で土地を買いたたかれ、次第に経済をアメリカ移民に握られていった。政治的にも権力を握ったアメリカ移民たちは君主制を倒す革命を起こし、共和制の憲法を国王に強制した。銃剣を突きつけて脅迫したため、新憲法は銃剣憲法と言われた。共和制憲法にはアジア系移民の権利は認めていなかった。フィリピンが植民地にされた年にハワイ王国は滅び、アメリカに吸収合併されてしまった。
 
太平洋を直線的に結ぶ領土を手にしたアメリカは、いよいよ支那大陸に触手を伸ばした。しかし日露戦争に日本が勝利したために支那大陸にはアメリカの入り込む余地はなくなっていた。唯一白人種が手にしていなかったのが満州だったがそこには日本がいたのだ。
 
日露戦争でロシアから日本へ割譲された南満州鉄道の経営を巡って、アメリカの鉄道王ハリマンが日露戦争直後、共同経営を提案してきた。力尽くでは手に入らないと考えて懐柔策で近づいたのだが、日本側も単独経営に自信がなかったために、桂首相とハリマンの仮調印が交わされた。ところが日露戦争の終戦処理から帰国したばかりの外相小村寿太郎が猛烈に反対したのだ。日露戦争での兵士の犠牲は甚大だったために、その英霊に背くという理屈には誰も反対できなかった。そのため一方的に仮調印は破棄された。これがアメリカを怒らせたのだ。アメリカは満州を日本が独り占めする気だと完全に勘ぐった。日本はアメリカの野心がそれ程とは気がつかなかったのだ。当事者のハリマンはそれこそ激怒し、アメリカ議会に日本の裏切りを訴えた。その後娘婿のストレイトを奉天総領事に推挙して、ストレイトは満州の鉄道に何とか取り入ろうと画策した。しかし鉄道に直接関与することができず、次いで満州銀行の設立を目論む。鉄道に融資するためだ。しかしこれも頓挫し、都合5度における計画が無に帰している。その後アメリカは満州鉄道の中立化を提案するに至る。だがこれも日露の反対で頓挫する。日露はこの時蜜月状態になっていたのだ。
 
アメリカは第一次大戦でも活躍した日本が国際的に認められてきたことにイラついた。日本が国際連盟の憲章に人種差別撤廃を盛り込むことを提唱したことに反対し廃案にしたり、支那大陸での日本の政策にことごとく反対した。日本の政策のすべてに反対したのはアメリカだけであった。支那大陸で起きた排日運動はアメリカの宣教師たちが扇動したものなのだ。そして日英同盟を将来邪魔になると考えたアメリカ政府は日英同盟の解消に動いた。
 
日英同盟は世界が驚いた同盟だった。英国にとってはロシアとドイツに対抗するためどうしても必要なことだったし、日本にとっても当時世界最大の大英帝国と同盟を結んでいることは白人種との戦争抑止になっていたので重要なものだったのだ。しかし英国が同盟国に日本を選ぶとは世界中が思いもしなかった。だが英国は「北京の55日」で活躍した日本軍を観て絶大な信用をしたのだ。日本軍は世界一の軍律の厳しさを誇っていたからだ。北京で略奪・強姦をしなかったのは日本軍だけであった。
 
アメリカは真意を隠し、太平洋の現状維持のためというきれい事を名目にして、日英同盟を発展的に解消してアメリカ、フランスを入れた4各国同盟にするよう働きかけた。4カ国で同盟を結んでも実際にはほとんど効力はなかった。英国も第一次大戦でヨーロッパ戦線に参戦したアメリカに恩義があったため断れなかった。またアメリカは日本の海軍力を押さえる目的で軍縮を言い出した。日本は純情にもアメリカの世界平和のためというきれい事にまんまと乗せられてしまった。時の日本全権幣原喜重郎の大失策と言われている。
 
1922年奇跡的だった日英同盟は破棄された。アメリカでは日系移民の排斥も進んで、1924年に絶対的排日移民法が成立し、アメリカ本土の日系移民の権利は全て剥奪されてしまった。
 
アメリカは日本人排斥を支那大陸でも行おうとした。その先鋒となったのがキリスト教の宣教師だった。世界でキリスト教がほとんど普及しなかったのは日本だけであった。それだけでも宣教師たちは日本を邪悪な国と考えていたのだ。手始めは日本製品不買運動を仕掛けることだった。カトリック系の支那人大学生を雇ってデモ行進をさせたり、日本製品を非難する演説をさせた。日当が5銭だったという。これが5.4運動として支那人ナショナリズムの発露と言われている事件だ。裏にアメリカがいたのだ。支那人ナショナリズムなどあるわけがない。なぜなら支那は一つの国だったことなどないからだ。アメリカは支那人を金で雇って排日運動をさせ、日本製品を排斥してアメリカ製品を買わせようとしたのである。ここに日米の利害が衝突することになった。
 
ロシア革命後誕生した共産主義国ソ連支那大陸に野心を抱き、日本を排除する工作を行った。新たな国境の危機が起きたのである。ソ連蒋介石の国民党政府軍を支援し、支那人共産党を組織し、支那の内乱を画策した。アメリカも蒋介石を支援して軍事物資を送り続けた。戦闘機まで送ったが支那人の操縦では役に立たず、操縦士付きで戦闘機を送ったのである。有名なフライングタイガー部隊がそれだ。蒋介石の妻の宋美麗はアメリカ育ちの大富豪の娘だが、アメリカで反日活動を続けて人気者になり、ハリウッド俳優なども反日を表明するほどだった。ハンフリー・ボガードなども反日を表明していたという。
 
日本は蒋介石の後ろにアメリカがいることを知っていて、支那大陸での戦闘は「事変」と称していた。「戦争」と言ってしまったら、対戦相手に支援する国に宣戦布告することになるからだ。日本軍は支那大陸の邦人の財産や生命を脅かす国民党軍や共産党軍の攻撃を防ぐ戦いをしていただけで、アメリカと事を構える気は全くなかったのだ。だから日中戦争などというのは毛沢東のねつ造でしかない。日本が「事変」と称して戦争を避けていた事につけ込んで、アメリカはせっせと蒋介石に武器や物資を援助し続けた。
 
1931年、満州の治安維持とソ満国境を警備していた日本の関東軍柳条湖事件をきっかけに満州全土を占領し、不拡大政策をとる本土政府と対立したが、満州における匪賊たちの邦人への日常的な攻撃、鉄道への妨害、略奪・虐殺等の犯罪行為は日々甚だしく、関東軍の占領による治安維持行為は認めざるを得なかった。関東軍はそのまま占領を続けることはせず満州国建国を急いだ。国の体裁を取らなければ日本が投資した莫大な財産や邦人の命を守ることなどできなかったのだ。支那には責任を取れる政府などなかったからである。そもそも満州支那においては化外の土地(万里の長城の外)であった。清帝国の最後の皇帝・愛新覚羅溥儀は祖国満州の建国を強く望んだ。(極東軍事裁判では関東軍に脅されたと嘘の証言をしている。)1933年には満州国は当時独立していた世界の国々の3分の1の承認を取り付け、国情は安定した。ちなみに満州国は対米英戦争には中立を保った。満州事変を起こした関東軍は兵力1万数千程度の小隊だ。満州で乱暴狼藉の限りを尽くした張学良などの匪賊たちは15万~30万という大集団だった。
 
支那大陸のあちこちで日本人が虐殺され、権利が侵害されるという状況で、国民党軍に日本が本気で反撃したのは第1次、第2次と続いた上海事変後である。上海には国際共同租界(米英日伊)とフランス租界があったが、1932年1月9日に3万の支那軍が取り囲み、市内には戒厳令が敷かれた。28日最初の軍事衝突が起きた。日本軍は守備隊1000名に軍艦からの支援1700名であった。事変発生後日本は7000名の派遣をしている。死者は日本側769名、支那軍側14,000名強であった。3月3日には国民党が退却し5月5日停戦協定が成立した。しかしその後も日本の将兵が殺害される事件が相次いだ。それでも日本政府は事態不拡大方針をとり、増援した部隊は停戦を受けて撤退させた。
 
第1次上海事変のきっかけは戦後関東軍の陰謀と謂われてきた。極東軍事裁判で田中隆吉(当時小佐)が自分がやったと証言しているからだ。しかし満州事変から世界の目を遠ざけるために起こしたという理由は不自然きわまりない。満州事変満州建国は世界に認めさせなければ意味のないことだからである。当時の関東軍は正しいことをしているという絶対的な自信を持っていたのだから、世界の目をそらそうなどとは考えてもいなかったはずだ。どちらにしても圧倒的に数の面で不利だった日本軍から仕掛けることなどあり得ない話である。
 
1937年第2次上海事変では日本守備隊5000名に対して国民党軍は20万人に達していた。国際共同租界の日本人区域を包囲した国民党軍は発砲を開始、ついでアメリカ製の戦闘機を使って上海沖の日本艦艇を爆撃した。爆撃は周辺の租界地にも行われパレスホテルとキャセイホテル前の路上が爆撃され729人が即死、861人が負傷した。また婦女子が避難していた世界娯楽センターも爆撃され1012人が死亡、1007人が負傷するという事態になった。国民党政府は誤爆として遺憾の意を表明したが爆撃は続いた。
 
第2次上海事変以降、日本政府はこれまでの事態不拡大方針を改め、本格的に軍の投入を決めた。国民党軍は常に日本軍の10倍以上の戦力だったが、ごろつきの寄せ集めだったせいか連戦連敗だった。しかも逃げる際には民家を襲い略奪・強姦をした上で焼き払うという「堅壁淸野」と称する焦土作戦をとった。蒋介石は「日本軍に何も渡さないためだ」と嘯いたという。支那人の敵は同じ支那人だったと言うことだ。国民党軍は共産党軍と共に自国民を数千万人規模で殺したのだ。
 
アメリカは支那大陸での満州立国や日本軍の追撃戦を非難し、経済制裁を加えるようになった。日本は外交でアメリカと粘り強く交渉を続けたが、食料品の禁輸、鉄鋼の禁輸、ついに石油を禁輸するというアメリカの政策に、開戦しか打開の道はないと考え、米英に対して宣戦布告をしたのだ。一番の目的は米英が領有していた東南アジアの植民地を解放して石油等の資源を輸入することであった。最も重要な攻撃地は英国太平洋艦隊の根拠地シンガポールだった。そのためこの戦争を大東亜戦争と命名したのだ。日本にとっての主戦場はアジアだったのである。
 
日本はアメリカとは早急に和平を結びたかったので、真珠湾にいる米国太平洋艦隊を急襲して出鼻をくじき講和するつもりでいた。しかしアメリカは日本軍を太平洋上におびき出し、日本本土の空爆を計画していた。アメリカ軍の目的は日本の壊滅だったのだ。日露戦争直後にアメリカは対日戦争計画(オレンジ作戦)を練りはじめ、日本に勝つための研究をしてきた。
 
日本は日清・日露、第1次大戦で勝ち取った支那大陸での利権を守るために、排斥戦争を仕掛けてくる支那軍から邦人を守る戦いを続けたが、アメリカやイギリスが支那大陸から日本を追い出そうとして石油まで禁輸してきたために、資源確保を目指して米英と開戦した。
 
ところがアメリカは日本という国や日本人という民族壊滅を目的に戦争をしたのだ。その作戦が最初から本土を空爆することだったのである。木と紙でできた日本の家屋を焼き払うために焼夷弾を開発し、最初から本土の一般市民を殺す作戦を立てていたのだ。日本軍は太平洋上におびき出され、本土を守る術は最初からなかった。日本本土は200都市以上が爆撃され、非戦闘員である一般市民が80万人も殺された。原爆を使ったのも最初から計画通りだった。原爆投下演習は49回行われたことが明らかになっている。投下目標の都市もあらかじめ選定されていた。京都、広島、横浜、小倉が最初に選定された都市だ。次いで新潟が追加され、横浜と小倉が外された。京都が古都であることから候補を外されると長崎が候補になる。しかし最後まで京都は一番被害を検証しやすいとして候補に挙げられたが、スティムソン陸軍長官が除外を決定したという。候補地には通常爆撃が禁止されていた。あくまでアメリカは原爆の人体実験をしたかったのだ。広島では被害者の治療もせず、克明に記録をとっている。
 
アメリカという国は、ヨーロッパから移住してきたアングロ・サクソン人のプロテスタント清教徒)が神の名の下に先住民を虐殺し、彼らの土地を奪い、他国の植民地を奪い、さらに領土を求め、覇権を求めて、有色人種を奴隷にすべく戦ってきた国だ。自分たちを野蛮な人種から守ることで精一杯だった日本とは比べようもない邪悪な国なのである。